メディアはどうあるべきなのか?
そして我々はどうメディアと向き合っていけば良いのか?
堀江氏の発言から、少し考えるところメモしておく。
ジャーナリストの江川昭子氏がライブドア社長の堀江氏へのインタービューした内容が
掲載している。そこを見ると、堀江氏は、情報の価値は人気で決まるとの姿勢です。
<<江川昭子ジャーナルより引用>>
江川――事実が確認されれば、あとはどんな話も載せる、と?
堀江 紙面が許す限りですけどね。あとは人気ランキングだけですよ。
江川――人気?
堀江 インターネット(のニュースに)アクセスするじゃないですか。そこで何が注目されているか、と。だいたいの記事は、先にネットに出ちゃうわけですよ。注目度が高い記事はアクセス数が多くなる。それを紙にする時に、見出しを大きくする。紙は一日一回くらいしか出せませんからね。
出典
TITLE:江川紹子ジャーナル 〜 社会のこといろいろ 〜
DATE:2005/03/17 10:42
URL:http://www.egawashoko.com/menu4/contents/02_1_data_40.html
しかし、我々全員がインターネットですべての情報を検索する社会が到来するだろうか?
そして、その人気投票的アクセス数で、紙面の見出しの大きさが変わるような新聞を読むのだろうか?それが良いのだろうか?
現在の新聞社が一定の損得勘定を持って、
情報を好むと好まざるとに関わらず(無意識にしろ、意識的にしろ)、
情報を操作しているというのは間違っていない。
主観は、記事を書く時点から始まって、紙面の大きさ・記事の取捨選択等で
避けられない問題である。
そう、新聞には、紙面という空間がある。時事問題の大小が、紙面の大きさに表れるという意味だ。
(だからこそ情報操作が簡単なんだという批判はここではおいておく。)
ジャーナリズム精神を持っている新聞社の意見だからといって、
無批判に意見を受け入れるわけにはいかないが、
ある程度の基準を提供してくれていることには違いない。
つまり我々が情報を探したり、価値判断する時間を“良識のある”メディアの新聞社が
提供してくれていると考えることができる(もちろん、無批判に受け入れることは良くない)。
もし、堀江氏が望む時代が到来すると、情報の真偽だけでなく、
情報の重要性や時事の大小まで、各自が判断を行い、すべてのニュースが垂れ流されるだろうか?
情報処理演習では、そうも、教えているつもりだが、実際、すべての情報(本当はデータ)を
垂れ流されて、それを見るととなると、正直しんどい。
勿論、悪い面だけではなく、新聞という空間に制限されず、
様々な情報を発信できる手段を提供するという考え方には、良い面もある。
しかし、結局のところ、重要な情報を取りまとめるサービスが出てくるのではないだろうか?
それが、現在の新聞社であるかどうかはわからないが、、、。
すべての情報にアクセスすることで、ビジネスチャンスを見つけようとする堀江氏(や投資家)と
一般の庶民とでは、情報への欲求が大きく異なるのではないだろうか?
将来の情報社会は、インターネットに載らない情報は情報ではないという、そんな未来なのだろうか?
堀江氏が言う、新聞を無批判に受け入れている人達のためだとしても
アクセス数の多い人気の記事を無批判に受け入れるようになるだけではないだろうか?
新聞の主導権を編集者ではなく、インターネットの読者が握っている。
つまり、情報の自己消費?のような社会(流行情報?だけを追い続ける社会)を
危惧するのは、私だけでしょうか?
問題を問題として認識できるのは、知りたくないことも、
編集者が問題提起として新聞紙面を活用してくれているからではないでしょうか?
編集者と同じことができる人には、すばらしい情報社会かもしれないが、、、。
そして我々はどうメディアと向き合っていけば良いのか?
堀江氏の発言から、少し考えるところメモしておく。
ジャーナリストの江川昭子氏がライブドア社長の堀江氏へのインタービューした内容が
掲載している。そこを見ると、堀江氏は、情報の価値は人気で決まるとの姿勢です。
<<江川昭子ジャーナルより引用>>
江川――事実が確認されれば、あとはどんな話も載せる、と?
堀江 紙面が許す限りですけどね。あとは人気ランキングだけですよ。
江川――人気?
堀江 インターネット(のニュースに)アクセスするじゃないですか。そこで何が注目されているか、と。だいたいの記事は、先にネットに出ちゃうわけですよ。注目度が高い記事はアクセス数が多くなる。それを紙にする時に、見出しを大きくする。紙は一日一回くらいしか出せませんからね。
出典
TITLE:江川紹子ジャーナル 〜 社会のこといろいろ 〜
DATE:2005/03/17 10:42
URL:http://www.egawashoko.com/menu4/contents/02_1_data_40.html
しかし、我々全員がインターネットですべての情報を検索する社会が到来するだろうか?
そして、その人気投票的アクセス数で、紙面の見出しの大きさが変わるような新聞を読むのだろうか?それが良いのだろうか?
現在の新聞社が一定の損得勘定を持って、
情報を好むと好まざるとに関わらず(無意識にしろ、意識的にしろ)、
情報を操作しているというのは間違っていない。
主観は、記事を書く時点から始まって、紙面の大きさ・記事の取捨選択等で
避けられない問題である。
そう、新聞には、紙面という空間がある。時事問題の大小が、紙面の大きさに表れるという意味だ。
(だからこそ情報操作が簡単なんだという批判はここではおいておく。)
ジャーナリズム精神を持っている新聞社の意見だからといって、
無批判に意見を受け入れるわけにはいかないが、
ある程度の基準を提供してくれていることには違いない。
つまり我々が情報を探したり、価値判断する時間を“良識のある”メディアの新聞社が
提供してくれていると考えることができる(もちろん、無批判に受け入れることは良くない)。
もし、堀江氏が望む時代が到来すると、情報の真偽だけでなく、
情報の重要性や時事の大小まで、各自が判断を行い、すべてのニュースが垂れ流されるだろうか?
情報処理演習では、そうも、教えているつもりだが、実際、すべての情報(本当はデータ)を
垂れ流されて、それを見るととなると、正直しんどい。
勿論、悪い面だけではなく、新聞という空間に制限されず、
様々な情報を発信できる手段を提供するという考え方には、良い面もある。
しかし、結局のところ、重要な情報を取りまとめるサービスが出てくるのではないだろうか?
それが、現在の新聞社であるかどうかはわからないが、、、。
すべての情報にアクセスすることで、ビジネスチャンスを見つけようとする堀江氏(や投資家)と
一般の庶民とでは、情報への欲求が大きく異なるのではないだろうか?
将来の情報社会は、インターネットに載らない情報は情報ではないという、そんな未来なのだろうか?
堀江氏が言う、新聞を無批判に受け入れている人達のためだとしても
アクセス数の多い人気の記事を無批判に受け入れるようになるだけではないだろうか?
新聞の主導権を編集者ではなく、インターネットの読者が握っている。
つまり、情報の自己消費?のような社会(流行情報?だけを追い続ける社会)を
危惧するのは、私だけでしょうか?
問題を問題として認識できるのは、知りたくないことも、
編集者が問題提起として新聞紙面を活用してくれているからではないでしょうか?
編集者と同じことができる人には、すばらしい情報社会かもしれないが、、、。