『ウェブ社会をどう生きるか』(西垣 通著)を読んだ。

私は、情報学を専門的には学んだことはないので、
表面的なコメントしかできないが、
『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる』への反論がところどころに
ちりばめられている本だ。

拙書(大学生のための情報リテラシー)では、感覚的に書いてきた、
「情報とは、その人にとって意味を持ってはじめて情報となる」ということが、
生命情報、社会情報、機械情報という用語を用いて説明されている。

私なりの解釈としては、
たとえば、
機械情報とは、「HEYANIHAIRINASAI(部屋に入りなさい)」という言葉の記号表現部分のみのことである。記号で伝わるだろうと(私が)想定する記号内容(人間の社会で通用する情報)が、社会情報(部屋に入りなさい)である。そして、例えば、受け手にとって「部屋に入らなければならないな」と、解釈され部屋に入る場合や、「部屋に入りなさい」と言われたことに対して、「そのまま、そこに居続ける」ことも生命情報として、社会情報を受け取った結末である。



(話はそれていくが)
社会情報が機械情報という形で、つまり、私の口で発している内容が、
前の例のように
「HEYANIHAIRINASAI(部屋に入りなさい)」といっても、生命情報として「入りません」と対応する学生がいて、彼らが次のような記号表現「UGOKUTSUMORIHANAI(動くつもりはない)」、と私に言葉を発したすると、私に、「動くつもりはない」という社会情報を発する。そして、動かないということは当然、「私の指示に対して、従うつもりはない」あるいは「相手にする気がない」といった生命情報として私が理解する。

社会情報(発意?)が機械情報(文字?)という形をとり、
私の口で発している内容が、生命情報(解釈?)として
大学生に受け取られるよう教育する必要があるが、
大学生の側では、
口頭での注意(機械情報の形として、社会情報を伝えた言葉)を
注意として対応すべき生命情報に解釈できない者がいる(無視、キレる)。

このような学生が発している「UGOKUTSUMORIHANAI」が
「今後、私の指導は、一切必要ない」という
生命情報を私に発生させていることに、本人達は、気がつきもしない。

このような態度で、いったい何が大学で学べるというのでしょうか。
学ぶ者なき場所に、教育なし。


『ウェブ社会をどう生きるか』(西垣 通著)には、
これ以外にも、場や、人工知能の可能性や、生物と機械の違いや、暗黙知と教育などについてもふれている。やや難解な部分や、一神教を安易に一般化しすぎている感はあるが、“情報量”ではなく、“情報”を理解するには、良書である。